手足さえ動けば仕事ができる? 鮨職人 磯貝さんの場合

鮨職人である磯貝さんは、朝の4時に起き、築地市場に買い出しに行き、11時半から昼の営業、2時に閉店、また夕方5時から9時まで営業するという目まぐるしい毎日を送っていました。
 倒れたその日、磯貝さんは昼の営業を終え、二階にある自室で仮眠をとっていました。3時過ぎに目覚ましで目が覚めましたが、起きようとしても体の左側が動きません。異変に気付いた磯貝さんはすぐさま奥様に「救急車を呼んでくれ」と頼みました。1時間経ずに救急病院に運ばれましたが、その時には既に意識がなかったそうです。CTを撮ったところ、右の被殻出血で、その日は経過を見ることになりました。しかし、翌日の朝、出血量が多かったため、開頭して血種除去術を受けました。その後、3日間は声掛けには反応するものの、開眼が続かず、意識レベルが低い状況でした。その後、段々意識が回復し、その際にベッドサイドにおられたお母様に気づかれた時には号泣されたそうです。
急性期病院では立ち上がりや左手の動きを良くするなどの身体に関するリハビリが中心でした。寝ている間に左腕が脱臼することが良くあったというのは左側の身体失認があったからだと思われます。急性期病院に40日間入院されましたが、急性期病院では高次脳機能障害に関しては何も言われなかったそうです。
その後、回復期リハビリテーション病院に転院しました。転院後、左側にぶつかる、左のご飯を食べ残す、といった症状に対し「高次脳機能障害がある」「左半側空間無視がある」という説明を受けたそうです。
回復期リハ病院に転院した初日にはとてもショックなことがありました。それは、病室のベッドに案内された際に、看護師の方から「磯貝さんの前にこのベッドを使っておられた方は小料理屋さんをやっていましたが廃業しちゃったんですよ」という言葉でした。その言葉を聞いた磯貝さんは「何でこんなところに来ちゃったんだろう」とトイレで大泣きしたそうです。そして家族にも「他の病院を探してくれ」「早く出してくれ」と要望しましたが、その後はその看護師の方を見返したい一心でリハビリを頑張ったそうです。
入院中のPTさんからは「生活に戻ってからの方がもっと良くなるから」と言われ、その言葉を胸に、退院後はもっぱら「歩くことが仕事だ」と歩くことに専念していました。退院3日後には、築地市場に行き、健常者だったら1時間くらいで歩けるところを3時間くらいかかって歩かれたそうです。その後、自宅周囲から始め、知り合いの方のお店に顔を出し、お土産をもらうのも楽しみの一つになり、1日に4㎞も歩けるようになりました。けれど、その後の磯貝さんが鮨職人の道に戻るまでは、決して平たんな道のりではなかったようです。
文責 山口加代子

専門家による寸評

臨床心理士山口加代子

磯貝さんの復職までの道のりは決して簡単なものではなく、磯貝さんの想像を絶する努力とご家族のさりげない、それでいて適切な支援があってのことだと思われた。「何としてでも鮨職人に戻りたい」という磯貝さんの強い主体性とそれを引き出した長谷川先生と奥様の存在が大きいと思う。
 磯貝さんは回復期病棟に入院中に「高次脳機能障害」「左半側空間無視」と説明され、「左半側空間無視」については「ご飯を食べ...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

本冊子お二人目となる鮨職人の聞き取りでしたが、やはり長年培った職人としての技術や勘は障害を負っても失われないことと(だからこそ病前レベルとの差をご本人が感じてしまうこと)、家族経営であり家族が最大の支援者になってくれたことが復活のキーになった点が、その主な共通点だったように思います。

 そんな中、非常に興味深く感じたのは、磯貝さんと奥様の「方針が合致した後」のことを、お互...


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インタビュー記事

三代目の鮨職人

東京は上馬、環七通りと玉川通り交差点近くに、昭和9年創業というお鮨屋さんがあります。屋号は「つるや」、戦災時にも周囲は焼け野原になった中、裏手にあった陸軍の消火協力で消失を免れたというその鮨屋にて、三代目として包丁を握る大将が、磯貝さんです。
「店の売りですか。やっぱりうちとしたら、昔から生のマグロしか使ってないこと。国産にこだわって、冷凍は一切使ったことがないですね。目利きもありますけれど、問屋さんも戦前から半世紀以上の付き合いで長年の取引の信頼関係もあるんで。あとは祖父から伝来しているシャリ(酢飯)の味ですね」
 赤坂の日本料理屋で修行の後に店に入ったのは1988年のこと。結婚を期に代替わりも果たした後は20年以上奥様とおふたりで店を切り盛りし続けてきたといいますが、実は磯貝さんが脳出血によって高次脳機能障害と重い左半身の麻痺とを抱えるようになったのは、代替わりから5年ほどのことだったといいます。つまり、大将として板場に立つ生活の半分以上は、障害当事者としてのものということ。
 今回はお店のカウンターを前にしたテーブル席で、ご一緒に店を切り盛りする奥様もご同席の上、当時から今を、振り返っていただくことにしました。
「それは忙しかったねえ。この仕事、朝は早いし夜は遅いしね。鮨職人が板場に立って鮨握ってるのは、一日の流れの中で言ったらね、容易いことなんですよ。そこに立つまでが大変なんでね。あの頃はちょうど、先代の反対を振り切ってお昼のランチ営業でちらし鮨とかも始めた後でね。お客さんの入りも、やっぱり変わりましたねえ。女性のお客様がすごく増えて。うちのちらしってちょっと特殊なんですよ。ネタ自体はみんなひと口ぐらいのサイズなんですけど、重なってたくさんの種類が入ってるんで、食べるお客様は、食べても食べてもまだ下にネタがあるって喜んでくれて、それが楽しみなんですね」
 その口ぶりからは、三代目として充実して店を切り盛りしていたことがうかがわれます。磯貝さんが倒れられたのは、そんな勢いさなかの42歳のことでした。

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