事故から25年経って高次脳機能障害と知った 配送ドライバー Kさんの場合

 事故に遭う前は、再婚した旦那さんと子ども二人、普通の生活でしたね。保育園に子どもを入れ、パートと内職を掛け持ちしていました。この旦那が、長距離トラックの運転手さんだったので、子どもと一緒にトラックに乗り込んで、あちこち連れて行ってもらってたんです。取引先には色んな仕事があって、ちょうど社会勉強というか、色んな仕事を見たりするのもいいかなと思って。下の子がハイハイしたのもトラックの中なんですよ。
 事故が起きたのは、大分に行くということで、一緒について行った時です。なぜかその時は、お金も余分に持って、キレイな下着を身に付けていこうと思ったんですよね。その数時間後のことでした、後ろから来たトラックにはねられたのは。当時は携帯がなかったので、配送する場所を確認するために、公衆電話に入ろうとしたんです。トラックから降りる時は、左右を確認していたんだけども、「あ、私、空を飛んでる!」と思って、そのまま記憶が途絶えました。旦那さんも子どもも、私が宙を浮いたのを見ています。トラックの中から毛布を出して、私の身体にかけて、救急車を呼んだそうです。田舎道でしたので、救急車が来るまで、2時間くらいかかりました。その間、私は旦那さんや子どもに囲まれ、頭から血を出して倒れていました。運ばれた病院では「これは処置ができない」ということになって、そこからまた大きな病院に転送されました。 結局、4時間くらい放置状態ですよね。次の病院で、ストレッチャーからベッドに移す時ですかね、「この人は重たいわね!」と言う看護師さんの声で目が覚めました。でも、まだ意識は朦朧としている状態でしたね。その日の食事にシチューが出たのを覚えています。食べられませんでしたけどね。脳挫傷、硬膜下血腫だったかな。旦那さんが義理のお姉さ子どもも連絡して、子どもたち二人は、電車で先に自宅に帰ったようです。10日後に退院、旦那のトラックで滋賀県まで戻ってきました。
 みんなは、私の顔がぐちゃぐちゃだと思っていたみたいです。。頭だけなんですよ。首から下は何もなかったんです。身体はふわふわしていたけど、子どもが小さかったので、入院せずに、家事や育児もしました。疲れたら横になって休むみたいな。市民病院で精査した時に「左の耳が聞こえてないでしょ」と言われ、骨折が分かったんです。他に味覚、平衡感覚、匂いも分からなかったんです。生活していく中で、だんだんおかしいなと思うことがありました。コーヒーも石油臭くて飲めないし、料理は味がしないし、めまいもあるし。でも当時はなんでもかんでも「てんかんだね」って言われて終わってました。いらいらしたり片付けができなかったり、道が覚えられなかったり。
 事故をしてから、自分が思うように動けないです。車の運転もできないですし。旦那さんからは「俺は不用品をもらった」と言われました。色々あって、結局、また離婚しました。事故から3年くらい経ってから仕事を始めたのですが、記憶が悪かったり、要領悪いなって思うことがあって。これは本当におかしいなって思ったんです。たまたま、仕事先に、事故で高次脳機能障害になった人がいたんですね。そのあと、私が精神的にダメージ受けた時に、福祉課に行って「もしかして、高次脳機能障害じゃないか」と言われ、病院に行きました。これまでどこでも言われなかったんですよ。リハビリなんて何もせずに、全部一人ですよ。診断がついたのは、事故から25年経ってからです。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

 Kさんの取材は、高次脳機能障害の未診断問題だということもあるが、それ以上に、日本の、それも閉鎖的な地域の女性差別も重なって、聞いていてとても辛かった。30年以上前、日本にはまだ介護士という仕事はなく、入院した患者さんの身の回りは、看護師または家政婦という名前で雇われた人、または家族、それも女性の家族が担っていた。二十歳そこそこで育児も家事も仕事もしながら、姑の介護のために病院に通っていたというK...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

Kさんのお話から改めて感じたのは、高次脳機能障害の診断基準ができる前に受傷した当事者の地獄と、裏腹に、その世代が培った経験の貴重さについてです。

過去に目を向ければ、どれほどの数の当事者が、何の支援も理解も受けることなく自助努力の地獄の中を生きてきたのかに気が遠くなります。けれど、その自助努力を生き抜いてきた彼らには、それぞれの障害程度や環境や職種やパーソナリティによって...


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インタビュー記事

「なんとかやるしかない」から始まった当事者人生

「大変です。きついですよ、正直……ホントにこの何十年、きつかった」
 交通事故で重い頭部外傷を負いながらも、未診断無支援、リハビリテーションもなし。高次脳機能障害の診断が出るまでに25年……。Kさんは、それまでの人生をすべて自助努力で切り抜けてきた当事者です。
 複雑な家庭環境に育って早くに結婚したKさんは、二十歳の若さで下の世話を伴う義理の母の介護、子育てに加え、事務、軽配達、工業製品の仕上げ内職、映画のチケット販売から飲食店の手伝いと、多様な仕事で生き抜いてきました。
 事故に遭ったのは30歳で、トラック運転手だった二人目の夫との子どもが生まれて、その子がまだ4歳だった頃のことです。
 ただ立っていることすら難しい状況にもかかわらず、子どもが小さいから面倒をみる母親が必要という理由で、たった十日の入院を経て、自宅療養という名の主婦業務に強制復帰。買い物ですら小さな子どもに身体を支えてもらわなければ歩けない生活の中、夫からは「俺は不良品をもらってしまった」と言われました。
 パチンコ依存もあり、前夫との子への暴力もあった夫との離婚を決心したのは、事故後2年あまりが経ってからのこと。そこからのKさんは、ふたりの子どもと障害を抱えたシングルマザーとして、何の支援もない中を暗中模索で生き抜くしかありませんでした。
「ただ実はその当時(離婚まで)は、高次脳でおかしいという感じはなかったんです。めまいで歩けなくなったり、味覚や嗅覚が変わってしまったことに気づいたりということはありましたが、料理は小学4年生の時から作らされていたんで、その感覚でなんとかやっていましたし、自分の味や臭いを新たに自分で作り出した感じ。片付けができないとか、ちょっとしたことに瞬間湯沸かし器のようにカッとしてしまうとかはあったんですけれど、何が変だとか感じる余裕もなかった。気づかずに、自分の中でやってきちゃった、なんとかやるしかなかったんだと思うんですよ」
 仕事も受傷後1年半ほどで新たにリサイクル紙の問屋での事務職を始めたり、自宅にいる時間が長い時はワープロと教本を買ってきて自力で習得し、料理のアレンジレシピ集なども作っていたというKさんですが、初期の時点では感じなかった違和感をようやく覚えるようになったのは、離婚と転居のあと、軽バンによる宅配便の仕事を始めた頃だったと言います。

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