仕事を再開したら「なんでこんなこともできない?」にシステムエンジニア Kさんの場合

インフルエンザ脳症から障害者に

満員電車に乗った時に、ブルっと寒気がしたんですよね。あの時、インフルエンザをもらったんですね、きっと。これがすべての始まりですね。週末は熱が出ていただけ。救急外来でお薬をもらって自宅で寝ていたんですが、数日後、もう意識朦朧になって、しゃべるのもおぼつかないので、家族が「これはおかしい」と救急車を呼びました。この辺から1週間くらい記憶がほとんどないですね。搬送された先で、なんかメモみたいなものを書いているんですよ。でもそれを書いた記憶がない。あとで見たら「なんだこれ!?」みたいな内容をいっぱい書いていました。その病院では、たくさん検査をされて「インフルエンザ脳症」と診断がつきました。認知機能の検査も、リハビリもしました。もう頭がまわらないので、一日があっという間に過ぎてしまって、たいしたことをしていないのに、「病院って忙しい!」って思った記憶があります。1か月くらいで退院しました。主治医からは「要見守り」と1項目だけ書かれた紙をもらいました。まあ、1個ならいいかと思ってあり気にしなかったんです。ところが仕事でこんなに差し障りがでるなんて、当時は思いもしなかったです。
帰宅してみると、あれもこれも「なんだこれ?」みたいな感じでしたが、この頃は、まだ身体も戻っていなかったので、まずは体力の回復をしようと散歩してました。でも、それも異常に疲れるんですよね。さて、そろそろ仕事を再開しようかと思ったんですが、全然、頭に入ってこないんです。「なんでこんなことができないんだ!?」と大混乱でしたね。なんとかしなくてはと、とりつかれたようにパソコンの前にかじり付いてましたね。それこそ飲まず食わずですよ。
そうこうしているうちに、外来でリハビリを受けられる病院を紹介してもらいました。当時は、表情もぼんやりしていて、受け応えもテンポが遅かったようです。とても仕事ができる状態ではないですよね。確かに、初めの病院を退院するときに、「システムエンジニアなんて、脳の病気をした人ができる仕事ではありませんよ」と言われてました。では、他にどんな仕事があるのか分からないですしね。今ある仕事に取り組みますよね。でも、やってみては、ことごとく失敗するって感じです。理由も分からない。何ができないのか、なぜできないのか分からなくて、もう辛くて、辛くて。それでも、がむしゃらにパソコンを開いてしまう自分がいるわけです。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

 脳損傷の後遺症は、「身体」「認知」「心」と言われている。言語聴覚士はこの「認知」の中でも、主に言語機能に関わる職種である。しかし、医療・介護・福祉行政の中で、「身体」にくらべて「認知・言語」は軽視されていると、常々問題に思っている。「言葉による困りごと」が全然、反映されていない。麻痺よりも、コミュニケーションが難しいことの方が、社会的自立を阻害しているのにと、言語聴覚士としては、いつも歯がゆく思...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

 今回のヒアリングで改めて感じさせるのは、Kさんのような高度専門職を相手に、支援職がどのようなアプローチが可能なのか、という課題です。

 システム開発の中下流全域をカバーするなどといった知的ワークについて、実務レベルでの具体的支援介入が極めて困難なのは、


Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/xs320117/noucare.net/public_html/wp-content/themes/noucare_v1/single-interview.php on line 332

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/xs320117/noucare.net/public_html/wp-content/themes/noucare_v1/single-interview.php on line 332

インタビュー記事

全部ひとりでがウリだった

 小学6年生でパソコンを触り始めてから、プログラマー一筋。病前のKさんは、個人事業主のSEでした。大学在学中からプログラミングのバイトをはじめ、ソフト屋に就職。何度か転職はあったものの、基本的には小売業の受発注から会計までを一括で管理する社内ソフトの開発に携わり、開発後の従業員指導なども業務範囲だったと言います。個人事業主として独立したのは、30代半ばのことでした。

「僕の独立と同時に、最初の職場で同僚だったTも独立してソフト屋を起業したんです。以降はずっと一緒に仕事をしていて、仕事の半数近くがTと組んでやるものでした。Tの担当は、顧客の開拓から、必要なソフト開発の要望と仕様決定を大まかにヒアリングして、進行、予算関連までに渡るマネジメント業務。僕の担当は、顧客と関係性ができた後。現場レベルでの細かいヒアリングを直接相談しながら、実際のプログラミングをすること、その後の納品、実際に使ってみての障害対応や細かい仕様変更、新規機能の追加や保守運用なども含め、全部僕の独り部隊で回していました」

 通常ソフトウェア開発といって想像されやすいのは、大きな企業が発注するシステムに、何社ものソフト屋やSEが参加して、分業制でシステム全体を構築してスタイルでしょう。一方でKさんは、ソフトウェア開発の中流から下流までを、一切外注することなく全部おひとりで担うスタイルで、それを15年以上続けてきました。

「現場と関係性ができた後は、ごっそり全部ひとりでやれる。何か障害があった場合の対応、保守やバージョンアップも、ひとりでやってましたね。逆に自分以外には誰にもできないという感じ」

 それが病前のKさんのウリ。けれどその守備範囲の広さと、パートナーであるTさんがKさん以外のプログラマーを抱えずに、実質二人チームでずっとやってきたことが、高次脳機能障害の当事者となった後のKさんにとって、大きなマイナス要因になったかもしれません。

りじょぶ脳ケア<オンラインアカデミー会員>

有料会員になると、詳細なインタビュー記事や当事者の声、対談動画やセミナー動画を閲覧できます。更に、会員価格でのセミナー受講や様々な特典受けられます!

会員特典の詳細

このセミナー・交流会をシェアする