寿司を握ることで人生を取り戻す 料理店経営 乾さんの場合

覚えていること、忘れてしまうこと

 あの日は、いつも通りバイクで仕入れに行ってましてん。気がついたら病院ですわ。ほとんど記憶に残ってないです。入院中のことも覚えてないですね。退院して、しばらくたってから店を再開しました。そのあと、血が溜まって(硬膜下血腫)、また入院して手術しましたやろ? それは覚えてますねん。しゃーしゃーって水で脳を洗われて、何してますねん!? ってびっくりして。でも、それ以外はあまり覚えてませんな。
 退院してからは、しばらく病院に通って、リハビリしてましたな。始めは家内がついてきてくれてましたね。あの頃は、24時間ずっと家内と一緒でしたね。一人で通えるようになった頃、STの先生が、このままやったらボケる、少しでも店を再開したほうがいいと言うから、店を始めたんですわ。長いことやってますから、包丁なんかは使えますが、できへんことは色々ありましたな。段取りも悪かったですな。味付けも前とちょっと違いましたな。なんせお客さんの声が頭に入ってこないですわ、よう忘れる。「同じことをしゃべってる」って言われたりね。バイクが事故で廃車になったんで、自転車で仕入れに行ってましたが、ようふらついてましたわ。1年くらい経ってから「そろそろ免許センターに」とSTの先生に言われて、運転許可をもらいました。でも、配達の時に、すぐに脱輪してもうて。息子に運転を止められ、しばらくの間やめました。頭がとにかく疲れて、痛くなってくるんですわ。ほんとはお客さんがありがたいのに、もう来ないでほしいと思ったり、「もう終わりですねん」って言って帰したこともありますね。
 事故の現場検証みたいなん行きましたが、当時はまだ頭がぼんやりしてたから、相手や警察が何を言ってるのかよくわからなくて、言われるままに印鑑を押してしまいましてん。おかしいなと思ってたんですけどね。保険会社が言うてる意味もわからんし困りましたな。STの先生が、息子を呼べと言うので一緒に来てもらいましたかな。帰宅して話をしている中で、「おやじ、何も覚えてないんや」と息子が気がつきましてね、保険会社の交渉も、弁護士さん探しも全部してくれまして、助かりましたわ。
今でもよう忘れるんですわ。大きくメモして、決まったところにはっておきますねん。それを毎日見ますねん。何度も何度も見ないと忘れますねん。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

病室を覚えられない、リハの時間や、談笑した話をすぐに忘れる、特に急性期病院では、このような症状が多くみられます。意識がはっきりしてくるにつれ改善してくるものの、記憶障害が残存する人もいます。では生活ができないのか? 復職できないのか? それは一概に言えません。高次脳機能障害の中でも、記憶障害は、比較的、本人も周囲も、症状に気がつきやすいです。それゆえ、定着するまでに時間がかかる場合も多いということ...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

乾さんのご経験を聞いてつくづく思うのは、どれほど障害が重く見えても「受傷前に長年習熟していたこと(いわゆる手続き記憶)は残る」ということ。特に「身体の動きと強く連携」している手続き記憶について、それが当事者にとって、その後の人生で心のよりどころにも、機能回復のキーにもなるということです。

乾さんにとってのそれは「寿司を握ること」。僕にとってのそれは「オートバイの操作」でし...


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インタビュー記事

手が覚えていた

その道47年、18歳から寿司職人一本を生業としてきた乾さんは、交通事故をきっかけに高次脳機能障害の当事者となりました。18歳から修行を積み、25歳でご自分のお店を開業。以来ずっと続けてきたご自分のお店は、常連さんに愛される商店街の中のお寿司屋さんですが、カウンター7席に4人席が二つと座敷もあって、席数20以上と、板前さん独りで切り回すには、少々大変な規模。かつては職人さんを雇っていたこともありますが、ここ10年ほどは奥様とふたりで切り盛りされていたとのことです。
乾さんは、受傷後三カ月ほどでお店を再開させたといいます。
「一日の流れを言うと、朝6時半には市場に向かって仕入れをして、店に戻って仕込みをして11時に開店、以前はそのまま夜の23時まで通しで営業していましたけど、事故してからは14時に昼の部を閉めて30分ぐらい仮眠を入れるようになりました。学生時代には柔道をしていたし、日々鍛えている方でしたんで、体力には自信があったんでね。職人として修業時代は月に1日しか休みがなかったし、今でも風邪なんか年に一度ひくかひかないかで、それで寝たこともない」
入院病棟にいた時点でも「毎日腹筋100回」を欠かさなかったという乾さん。「体が資本で生きてきたのが(仕事に戻るには)何よりだった」とは言いますが、その体力に加え、何より乾さんの復職の支えとなったのは、受傷前の50年近くに渡る職人経験でした。
乾さんのお店はいわゆる大衆店で、握りや巻物だけでなく、天ぷらや揚げ物、炙り物や煮つけといった、幅のあるメニューを提供していました。季節にあった魚を仕入れ、複雑な行程を経た料理を提供する、高度な仕事です。一方で当時の乾さんは、入院している病院の名前がどうしても覚えらえなかったり、小学校二年、三年生レベルの課題をすごく難しく感じたりというほど、それなりに重い障害特性を残している状況。
にもかかわらず、乾さんは、料理をすることそのものについては、ほとんど不自由を感じなかったというのです。
「単品で作るものの手順が分からないとか、作れなくなったもの、作るのに手順で失敗したものというのは、一切なかったですわ。特に考える必要がない、考える前に手が動きますやろ。あかんかったのは、長いこと包丁握ってなかったから、かつらむき(大根の薄切り)とか。手がぐらぐらしてね。怪我してたのもあって、力入れると痛い。けど仕事と比べたら、リハビリの課題の方が難しかったやんな。仕事に戻りながらも、店を閉めたあとに、もらってきてたリハビリ課題やってましたけど、すぐ頭が痛くなってしまうし。思えば入院中もリハビリやったあとは、しんどくて次のリハビリ受けられずにすぐ寝てました。そら仕事の方が楽やんな」
そんな中で気になったのは、仕込みの時に頻繁にガスの火を消し忘れてしまうこと。かんぴょうを煮付けたり、エビなどを湯通しする際、そのことを忘れて住居のある二階に行って家事をしてしまい、黒焦げになってしまうということが重なりました。天ぷら油の火をつけっぱなしにするなど、何度か危ないシーンを経験して「びっくりした」とは言いますが、常にポケットにタイマーを入れたり、鍋の前を離れないといった対策でクリアしたそう。
乾さんは、料理を作ること単体の作業については、ほぼ完全に病前通りにこなせましたが、寿司職人の仕事は料理だけを作り上げられれば良いものではありません。お仕事に戻る中で乾さんに立ち現れた不自由は、調理以外の部分の細かいことについてでした。

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