社会的認知の低い「失語症」
俳優のブルース・ウィリス氏が突然の俳優業引退。その原因としてにわかにスポットライトを浴びた「失語症」という障害ですが、実際にその障害を負うことになった当事者がその後どのように生きていくのか、その障害をどのように感じているのかといったリアルな情報は、あまり社会に知られていません。
失語症は事故などによる脳外傷や脳卒中等によって脳の言語をつかさどる部位が損傷することによって起きる障害ですが、同様に記憶や注意などの認知機能や気持ちのコントロールをつかさどる部分を損傷することによる障害として、高次脳機能障害があります。そしてやはり、この高次脳機能障害もまた、社会的な認知が非常に低い障害でもあり、共に「見えない障害」とも言われています。
開催の経緯
NPО法人Reジョブ大阪では、この失語症や高次脳機能障害のように、あまり実態を知られていない脳損傷後の後遺障害についての社会認知を高めるため、そして当事者や当事者を支える医療職・支援職にとって必要な情報を広めるために、これまで様々な活動をしてきました。事業の柱である定期刊行物『脳に何かがあったとき』の制作にあたっては、文筆家、鈴木大介氏と共に、受傷後、働く場に戻った当事者にインタビューを重ねてきました。鈴木氏自身も高次脳機能障害を抱え、当事者となった視点から感じたことも織り交ぜ「元ルポライターである自身のリハビリにしたい」と発信を続けています。
このたび、その際ヒアリング協力をしてくださった失語症・高次脳機能障害当事者3名と医療者・専門職による公開イベント『言葉を失っても、働き続ける』 ~第一回・失語症・高次脳機能障害 公開シンポジウム&事例検討会~ を開催しました。
一度発症してしまったら、もう元通りの人生はない。元の仕事に就くなど、到底考えられない。失語症をはじめ、脳外傷や脳疾患を原因とする脳機能障害の当事者に対して、世間の多くの印象はそうしたものでしょう。けれど本事業では、これまで仕事に戻られ、障害を抱えつつも働き続けている当事者のケースを数多く聞き及んできました。もちろんそこには、生半可ではない苦難の道がありますが、その苦難にどのように対峙したかのエピソードは、障害当事者だけでなく、むしろ健常者にも多くの示唆を与えるものです。
今回ご登壇をいただいた3名は、いずれもキャリア形成後に言語機能を失う、つまり失語症を発症し、それでもお仕事に戻られた当事者です。
最も言語機能を必要とするお仕事である中学校の国語教員として、教育現場に身を投じ続けてきた馬渕さん。大手保険企業で様々な部署でキャリアを積み、監督者的な立ち回りで活躍されていた女性の梶さん。移り変わりの激しいIT業界に黎明期から関わり、世界を股にかけるフリーランスエンジニアとして業界の波を乗り切ってきた粂川さん。
いずれも言葉の機能を失ったらとても復職はできないと感じられがちな職種であり、実際に医師から「復職は無理」と断言されたケースもありながらも、彼らは見事お仕事の世界に戻られ、現在も活躍されています。
イベントでは、冊子事業で過去にインタビューした内容に加えて、改めて事前にインタビューした三人三様の「働き続けて至った今」を素材に、当事者同士での事例検討や意見交換を行いました。聞き手は鈴木大介氏と言語聴覚士の西村紀子。失語症や高次脳機能障害の当事者にとって、働き続けること、生き続けることの生の声を掘り下げ、当事者の就労における問題点や社会や企業に改善を期待したい点などを生の声で発信するコンテンツになりました。
事故や病気で脳を損傷したら、もう働けないのか。また、どのようにすれば再び働くことができるのか。このことは、当事者のみならず、その家族や、勤め先の企業などにとっても、大きな不安であり、課題であり、ただでさえ社会的認知の低いこの障害において最も知られていない部分でもあります。
当事者が自身のみの力で再び仕事と糧を得ていくことは非常に困難ですが、周囲の障害理解と適切な協力があれば、それは決して不可能なことではありません。当事者自身の経験と知見から学ぶ。この公開インタビュー・事例検討会を、この障害を抱える当事者にとって希望の一歩にしたく考えています。
Reジョブ大阪の狙い
Reジョブ大阪の活動の多くで力点を置いているのは、「当事者と一緒に発信」することです。その理由は、まさしくこの障害の社会的認知の低さの理由が、医療者や専門の支援職の臨床においても「理解が難しい」とされているからです。実際、『脳に何かがあったとき』でヒアリング対象となった当事者の中には、受けた医療の現場でその障害を見逃されて、全く無支援のまま自助努力で生き抜いてきた苛酷なケースが多数ありました。また、そこで語られる当事者自身による不自由の訴えや、独自の乗り越え方に、多くの医療者や支援者が目から鱗の落ちるような思いを寄せています。
Reジョブ大阪が重視するのは、既存のような医療職や専門家サイドから発信される情報に偏らず、当事者自身がその障害によって何ができなくなり、それをどのように感じ、どのように乗り越えているのかといった知見を集積し、それを専門家サイドにフィードバックしていくことです。
なお、今回の公開シンポジウム及び事例検討会、今後の同名イベントもまた、企画運営から広報、そして登壇発言のすべてを当事者チームによって行うことを目標にしています。ビジネス経験豊かな当事者による実行委員、さらに広報を担当する当事者サポーターたちによって、企画の方針決定・運営、協賛募集から広報活動まで、当事者自身の手で作り出すイベントにします。
冊子化にあたり
このイベントは、2021年8月20日に、オンラインにて開催されました。参加者は登壇者を含め約70名。その時の様子をお送りします。また、登壇者が最初に取材を受けた記事の要約、事前対談の様子を文章化したものも記事にしました。すべての文言を掲載することはできませんので、特に対談部分等はかなりの発言を省略、また、今回のシンポジウムのメインテーマから少し外れたものや、当日の質疑応答も割愛しました。ご了承ください。
分かっているつもりでいた。たった数か月、決められた期間だけしか目の前の患者さんと向き合わないのに、復職できるのかどうかの判断も、これから何年にもわたる予後も、言語聴覚士として把握できているつもりであった。なんておこがましかったのだろう。
これはかつての私に対して、今の私が、しみじみと思うことだ。きっと、将来の私も、今の私に対して同じことを思うのだろうが。
失語症があ...
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のっけからこぼれ話、かつ自分事の話をさせていただくと、今回シンポジウムのファシリテーターを担うことになった僕は、開会30分ほどで全く頭が回らず言いたいこともまとまらなくなり、急遽司会を西村先生に引き継いでいただくという、消えて無くなりたくなるような大失態をしでかした。
これが失語症診断のない右脳損傷の当事者である僕の中にいまも残る、「易疲労ベース」の話しづらさ。受傷当...
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子どもの名前も出てこなかった
今から7年前、長年勤めていた会社で管理職として働いていたいつもの日。通勤中に大型のトラックにひかれ、病院へ。脳梗塞も発症、麻痺と失語症、高次脳機能障害が残りました。運ばれた病院では、言語聴覚士の検査で子どもの名前が出ず、混乱したそうです。注意も散漫になって、何かを考え続けることができませんでした。身体の麻痺は徐々に改善して、身の回りのことはようやくできるようになったのですが「言葉や思考というか「頭」が戻らないんです。」と梶さん。
「こんなことでは、仕事は無理だ」と思っているのに、「6か月で終了です」の一言だったそうで「これからが一番大事で、今が一番不安なんですよ。これからの生活はどうなるの?」と思っていたそうです。この状態で、症状について自分で上司に説明するなんて無理です。交渉ごとなんてできません。ですから、不条理を感じながら死に物狂いで仕事をしたそうです。「言葉が不自由なだけで、ばかにしたような態度もとられ、悔しい想いもたくさんしました」
復職以外は考えなかった
「周りの人には、そこまでして働く必要はないんじゃない? と言われたし、最初はなんとなくイメージ的に、会社を辞めてもスーパーとかでパートみたいにして働けばいいやという気持ちがあった。けど、なかなかうまく話せるようにならないし、この状態だと、逆に他の職場では気楽に働けるところがないんじゃないかという気持ちになって。それで、自分がやってきた経験を評価してくれる会社に戻る方が、自分はまだ社会と関わっていられるのかなと思いました。ただ、病前の仕事は厳しいかも、さすがに管理職は難しいだろうから、書類を扱うような仕事ならなんとかできるんじゃないかなと思っていたんです」
保険業界と言えば、まず思い浮かぶのは女性の従業員比率が多く働きやすいと言われていること。そして、他の業界に比べても障害理解は格段に進んでいそうな印象。では実際、梶さんの復職経緯はどんなものだったのでしょう。
受けられなかった配慮
2年間の休職後、1日6時間、週5日勤務から職場に戻りました。ただ、中途障害を抱えて復職するロールモデルが職場にいなかった上、当時は自身の障害について詳しく教えてくれる人もいなかったため、復職時の交渉には難しさを伴いました。また「自分ができると思っていることと、できないことのギャップに愕然とする」という経験もされました。パソコン作業もできなくなって自分自身にびっくりされたそうです。また上司である男性課長も異動してきたばかりで、梶さんとも面識がない上、仕事もあまり理解していない状態の中、必要な配慮や協力を受けることはできませんでした。
職場環境そのものも、特に障害を抱えた職員を受け容れる体制がなく「とりあえずふわっと席に座っていたらいいよ」といった感覚で、隅に席だけがポツンとあるようなところに座っていて、仲間の声かけも減りました。スピード感のある実務能力を武器にしていたタイプの梶さんは、業務に戻れば戻るほど、そのギャップは深まるようになっていきました。
自身を追い込む病前ギャップ
こうして多くの不自由を感じる中で梶さんが一番ジレンマを感じたのは、易疲労(疲れ易さ)によって削られる自尊心でした。
「モニターに向かっていられるのはせいぜい30分。とにかく疲れてしまう。以前なら何かが重なってもできるっていう自信があったのに、本当に『なぜこんなに使い物にならないんだろう』とネガティブな気持ちに。病前の自分とのギャップや、病前の自分に合わせて自分を追い込んでしまうことで悪化しました。
もっとやりたいという気持ちになるのに、二時間ぐらいで疲れる。周りが止めても頑張ってしまい、終わる頃にはかなりしんどくなって、結局、家族に迎えにきてもらうようなこともあったそうです。
気を回して指示されていない備品管理をやったら、そこで起きた備品の紛失を梶さんの責任にされてしまうという誤解もありました。
「そこまで言われるんだったら、今はもう言われたことだけをしよう」とその時はすごく悲しかったそうです。
自分のトリセツ作り
復職から三年、親の介護も重なって、精神的にも肉体的にも限界に達した梶さん。思い切って介護休業を申請して休業に入ります。その間、ご自身の心境にも変化があり、元の自分に戻りたいという考えに囚われて自分を追い込んでいたのが、「楽になっていいんだ」と思い直せたそうです。休業後の面談で、自分の考えを正直に伝えたことで、「周りの対応も評価も変わり、自分の働き方も変わってきた」とのこと。
復帰の際に梶さんが作った資料は、ご自身が苦手なことや、どんな配慮をもらえばできないことができるようになるのかといういわば自分のトリセツ。例えば「しんどいのは、怠けてるのではなく、休むことが必要だから、配慮が欲しい」と言えば、障害者と一般人の休むことの違いを上司が説明してくれるように変わっていったそう。
保険業界という、最もダイバーシティに拓けている業界であっても、当事者自身の立ち回りや自己開示が環境を変える一歩目になりうることを感じさせる、梶さんのケースです。
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