倒れた日は、普通に仕事をしていたんです。その日の夕方から有志で勉強会をしていたら、なんか口が回らないし、頭がぼーっとしてきてね。脳卒中のことなんかあまり知らなかったんですが、「これはおかしい」って、近くにいた社員に「ごめんやけど、救急車を呼んでくれる」って頼んだんです。ガクッと意識がなくなるって感じではなくて、なんかぼーっとした、ふわふわってした感じですかね。救急車に乗る時、近所のおばちゃんにVサインしてみたりね。なんか、ふわん、ふわんって感じ、ぼーっと深い眠りに引き込まれるような。あのまま死んでいたら、楽やっただろうなと思いますね。すっと息を引き取る感じで。
親父の会社を継いたんです。若い時から会社を継ぐと思ってました。仕事が人生そのものでしたね。好きというか、仕事をするのが自分の人生のテーマでしたから。売上が上がって、社員にお給料もボーナスも出せると、経営者として嬉しくてね、会社の成功が、自分にとっての幸せでした。今から思えば、アホみたいに仕事していました。会社の近くに自宅も構えたしね、朝から晩まで、休日も、いつもいつも会社に行ってました。忙しかったけど、楽しかったし、充実した気分でした。
年一回の健診では、高血圧をずっと指摘されてたんですよ。でも、薬をちゃんと飲んでいませんでした。マラソンもしてましたし、自分の健康には自信があったんです。だから薬を飲み続けるのに、抵抗があったというか、要らんかなみたいな。町医者に「この心臓は良い心臓や、ベンツみたいや」って言われたりね、経営者の集まりに行っても、他の人は糖尿病や、痛風やって言ってるのを聞いて、俺はなんて健康やと過信していました。
急性期病院に運ばれた後から、出血が広がって、手術をして、チューブだらけでした。麻痺もキツくてね。車椅子にようやく乗れるようになって、リハビリ病院に移りました。自分ではしゃべれてると思ってたんで、言語の練習は好きじゃなかったですね。当時は、30分座っているのがきつかったんかな。必要性も感じてなかったですし。なんとか歩きたいって気持ちばかりでした。今の方が、口のリハビリをせなあかん、喋りにくいって感じています。
これまであちこち飛び回ってましたけど、麻痺もきつかったから、今まで通り動けないって分かったから、もう会社は二番手に任すしかないなと、頭を切り替えました。息子にも「戻ってきて会社を継いでほしい」って話しました。退院したら、補佐的なことならできるかなと思ってましたが、甘かったですね。慣れたパソコンの作業も全くできなかったですね。頑張ればできるようになったかもしれないけど、その気になれなかったんです。
鈴木大介さんは一時期を除いて、ほとんどフリーランスで仕事をしている。私は二〇一九年に起業して、病院という組織を離れた。私たちは、組織という基盤を持っていない。良くも悪くも、今回インタビューした山元さん、粂川さんと違い、雇用している人はいない。他の人の生活を支える責任がない代わりに、自分が倒れたら、即、事業が、収益が止まる。
脳神経外科病院に勤めている時、零細企業の社長さんや自営業...
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失った機能で無理に何かをしようとしなければ、特性は「障害化」しない。これは障害を取り巻く鉄板の原則です。後遺障害を抱えながらも後進に道を譲ることで穏やかな今を得ている山元さんは、ご本人の言う通り「もし手放せなかったら一転して地獄を味わったかもしれない」当事者でもあります。
ただ、お話を伺って何より感じたのは、経営者(特に中小企業の社長)という立場の人間に対しての復職支援は...
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山元さんにとって仕事とは? 会社とは? この問いに、父親から継いだ印刷箱会社を経営する二代目社長である山元さんは、こう即答します。
「会社ってまあ、人生ですね。一番大事なもの。倒れた時に思ったのはね、会社が倒産するより自分が倒れたことの方が良かったということ。会社っていうのは僕だけじゃなくて、社員もいて、仕入れ先もいて、会社っていうのはそういう公共的なものやからね。それを駄目にさせてしまうっていうのが、僕にとっては一番つらいことだったんです」
果たしてこれは本音か建前か?
病前病後を通じて、この考えが心底からの本音であったことこそが、山元さんにとって最大の救いでした。山元さんは、病後の第二の人生に見事なソフトランディングを決めた当事者です。
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