アパレル→法務 未経験業務に挑戦できるわけ 製造業法務部門勤務 石井さんの場合

若い人たちが活躍する業界
 アパレル会社で働いていました。主に企画の仕事をしていました、どんな服を作るか考え、コストを計算し、どこで生産するかを決める。そういう業務に携わっていました。海外出張が多かったです。仕事は忙しかったけれども、体調は良かったですね。毎朝、ランニングをしていました。
倒れた前日まで海外にいたんです。帰国して、妻と散歩に行っているときに急に気分が悪くなって、道端に座って休んでいたんです。近所の人に「熱中症じゃないか?」と言われ、水をかけてもらったんですよ。最初は「こんなこともあるのかな」って感じでした。でも、まったく良くならないので、救急車を呼んでもらいました。救急車に乗り込んで、病院でMRIを撮ったあたりまでは、ぼんやりと覚えています。
言葉が出てこなかったと思うのですが、僕がそのことに気がついたのは、次の日ぐらいですかね。右半身は全く動かなくて、ご飯は流動食みたいなのを食べていました。妻の名前も子どもの名前も分からなくて、そういうのを練習していましたかね、あまり覚えていないです。言葉を聞くことはだいたいできたんです。夜間、新人の看護師さんとの雑談が、なんかほっとしました。僕もがんばろうと思いましたね。
3週間後にリハビリ病院に転院しました。妻がいろいろ調べてくれて病院を決めたんですが、知らない病院に行くのは不安でした。寝返りもできなかったので、理学療法がメインだったと思います。退院する頃は杖で歩けるようになっていたので「リハビリってすごいな」と思っていました。退院したあとは外来に週2日ほど通っていました。
会社に戻る時期は自分で決めました。戻るとしか考えていませんでした。細かい会社とのやり取りは妻がやっていて、産業医と相談して決めました。元々していた仕事のアシスタントという形で、時短勤務から始めました。この業界は若い人達が活躍するんですね。なので、キャリアチェンジについては元々考えていたんです。ちょうど希望退職を募っていたので、それに応募すると、大手のエージェントに登録されました。その会社から「障害者の就職フェア」を教えてもらって、そこに行きました。そこでいくつかの会社と面接をして、今の会社に決めました。不安はありましたが、これも経験かなと思って飛び込みました。全く新しい分野なので、勉強することがたくさんあります。失語症があるので確かに難しくなっているかもしれませんが、もともと勉強が好きなので苦ではありません。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

 この人は「言語聴覚士が遅れを取るパターン」だ。インタビューを開始してすぐに実感した。非常に知的レベルが高く、学習意欲も旺盛。これまでのお仕事の経験から事前の準備を怠らないし、トライアスロンをしていただけに、自主トレや課題は必ずこなして来る。「発症時、言葉が思い出せないというのもありましたが、麻痺があったので、声もでなかったんです。なので、まずは『あ~』とか発声練習をしていました」とのことだったが...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

様々な障害当事者の中には、必ず少数の「スーパー当事者」(多くの当事者が真似できないギフトをもった当事者)がおり、そうした当事者の成功談をことさらに取り上げることは、時に「できない」当事者にとってはつらい情報になることもあります。

石井さんは間違いなくスーパー当事者。けれど石井さんのケースは、高次脳機能障害や失語症当事者の就労支援では盲点だった、とても必要な視点を下さったよ...


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インタビュー記事

アパレル業界25年、輸入部門を立ち上げて

 大学卒業と同時に入った大手国内アパレル企業にずっと勤め続けてきたという石井さん。受傷後に元いた会社に戻るも、復職から約1年半で、障害者枠で転職し、今では全く別の職種についています。20年以上勤続した会社を、病気をして辞めて転職するというのは、細かい事情を知らずに聞けば、少々絶望的なエピソードに感じられるかもしれません。
 けれど石井さんご自身の体験は、その業界の特殊性や企業の規模などが反映して、端的に「病気・障害・転職」といった言葉からイメージされるものとは、ずいぶん違うもののように思われます。
「大学を卒業してすぐ株式会社Tに入社。まず初めに5年ほど営業をやって、そのあと企画部門にずっと。倒れる3年前ぐらいから、海外で服を作っている現場から直接商品を輸入する部門の立ち上げに携わりました。それまでは現地で作ったものを商社が輸入して、我々メーカーが日本で買っていたんですね。それを現地で買いつけることで、商社の分を自社で賄ってしまおうというプロジェクトです」
 ということで、倒れる直前のお仕事はこの立ち上げた海外買い付け部門の、輸入調整部門。仕入れ規模やコストや納期に合わせて、船便や航空便などの選択と調整をする部署で、統括長として日本と生産国(アジア)を行き来する日々が続いていました。
 倒れたのも、こうして海外出張から帰国した直後のことだったと言います。
「入院1か月、回復期病院が5か月、外来1か月、それで会社に戻りました。当初4か月ぐらいは、そもそも仕事には戻れないだろうなあと思っていました。麻痺と失語がありましたし、心理的にも混乱があったので。自分としては混乱しているとは思っていないけど、今思えばそういうふうなことだったと思う。4か月ぐらいで、どこなら戻れるかな~というのが出てきた感じ。これだったら行けそうだなあと。ということでその時点では、元の会社に戻らないという選択肢はなくて、戻ると勝手に思ってました。ただ、病前通りの部署で働ける認識があったかといえば、そんなことはなかった」

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