好き放題、体を痛めてつけていた
クモ膜下出血で倒れたのは、50代の働き盛りの時でした。倒れる2年前から、会社のそばに単身赴任をしていました。残業は当たり前の忙しさでしたね。若い時は現場仕事だったので、日が落ちると仕事を終えなくちゃいけないから、残業もそんなになかったんです。数年前に管理職になってからは、いつも、ずっと、頭の中に仕事のことがあって、ストレスでしたね。プレッシャーもありました。食事もめちゃくちゃで、コンビニのものばかり。タバコは22歳からずっとだし、お酒は、自宅では飲みませんが、お付き合いの時にはかなり飲んでました。まあ、無茶苦茶な生活で、サラリーマンの典型ですね。これも仕事だとか言って、好き放題、体を痛めつけていた、そんな生活ですね。
正月三が日を普通に過ごして、明日からまた単身赴任だねって嫁と話をしている時に、だんだん様子がおかしくなったようですね。よく痛みがあったか聞かれますが、全く覚えていません。ぼんやりとできごとを覚えているのは、入院して1か月過ぎたくらいからですかね。運ばれた病院にいた時は、意識状態が悪くて、ご飯が食べられず、鼻からチューブを入れていたみたいです。リハビリ病院に転院するときのことも覚えていません。リハビリ病院には半年いました。リハビリの先生のことは、あらかた覚えていますね。ご飯を作る練習をしたり、プラモデルを作ったり、いろいろやりました。自分ではできたと思っていますが、どうなんでしょうね。先生がいろいろ用意してくれましたが「なんでこんなことしないといけないんだ」といらいらしてましたね。病院には、会社の人がよく来ていたらしいですが、覚えていないんです。
半年経って退院しました。家に帰っても、記憶が悪くて、夜中に「あ、お風呂入ってない」とか「ご飯を食べた?」とか、おかしなことがたくさんあって、あれ、変だな……と思ってました。漠然とした不安はあって。いつになったら元の自分に戻れるのかな~みたいな。でも今思えば、何も考えていなかった気がします。
1か月くらい自宅にいて仕事に戻りました。復職する時には、障害者手帳を持って行きました。雇用に関しては、総務が手続きしてくれたんだと思いますが、その辺のことは、よく分かっていません。とにかく会社に戻ったけれども、仕事はできないし、やたらと疲れて、帰宅したらすぐ寝ていました。会社の人には「人が変わったね」と言われました。結局、これまでの仕事は難しいということで、違う仕事になりました。ま、これもしょうがないなと思っています。
脳梗塞、脳出血などの脳血管疾患は、ある日突然発症する。「まさか自分が」「これからの生活をどうしたらいいのか」と、どの患者さんも混乱しているだろうと思っているのは、私だけではないはず。ところが、今回取材したDさんは、深夜まで働き、常に頭の中で仕事のことを考えていた病前の生活には「もう戻らなくていいかな……」と思っているとのこと。この冊子の記事を書いている鈴木大介さんも、脳梗塞で倒れた時に「あ~これ...
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ヒアリングを通じてDさんから感じたのは、倒れた時点での、やり切った感、会社にやれる限り貢献しきった感のようなもの。本企画でこれまで取材した当事者の中でも、最も「穏やかな病後に着地している」のが、Dさんだったように思います。
元居た企業に復職し、病前の知識や経験を活かして、会社にとって必要な部門に戻ることができる。そしてその仕事の負荷をリハビリとして、回復の道に乗る。これ...
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日本のインフラを技術力で支える大手土木系企業であるR建設工業株式会社にお勤めのDさん。大学で土木工学を学んだ後、ずっとR建設工業にて働き続け、発症時点では勤続31年というベテランの技術者でした。
「会社に入って5~6年は現場が主体でしたが、発症した時期はちょうど支店に単身赴任をし、技術的な管理と設計をやっておりました。専門は地盤改良がメインで、主に水を止める技術。液状化対策とか。地下にトンネルを掘った時に、何もしなければ水が出ますよね? それをどう止めるかという技術を専門にやっていたんです」
得意とされていた分野は、設計計画。大規模な公共事業の受注を重要な業態とするR建設工業ですが、その落札の肝となる部分です。
「設計計画、それをすることによって受注に結び付くという面白みがある仕事だった。大きな案件をとったこともあります。仕事の中で一番楽しかった部分は、やっぱり計画で他社に勝つということですね。キャリアですか? たぶんうまく行ったら役職について上に上がっていけたでしょうね。年齢もそれなりの年齢ですから。地盤改良という仕事にも愛着があった。なかったら辞めてますもんねえ」
一九八〇年に新卒入社してから、会社は二部上場、一部上場と躍進。阪神淡路大震災で地盤改良技術が重視されるようになったことも追い風になって、大きく育つ会社と共に歩んできたDさんでしたが、倒れる直前はかなりの過労状態。管理業務は残業も多く、複雑な利益率を勘案して作らなければならない期日指定のある書類を常に複数抱え、週に二日は徹夜をしなければならないような、頭の休まることのない日々だったと言います。
Dさんが倒れたのは、そんな激務のさなかでした。
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