『脳に何かがあったとき』就労の専門家執筆号

取材したのは42人の人生そのもの
西村紀子

失語症は、脳卒中や頭部外傷などの脳損傷により、主に左脳にある言語中枢が傷つくことで「聞く」「話す」「読む」「書く」そして「計算」が困難となる障害です。この障害のある人は、現在50万人(失語症協議会2020)と言われています。また、高次脳機能障害は、言語・記憶・思考などの認知能力に障害をきたすため、日常生活や社会生活への適応に困難を生じます。この障害についても推定50万人とも(種村2011)80万人とも(渡邉2019)とも言われています。こんなに大勢いるのかと驚かれると思いますが、実は未診断、つまり診断されていない人もいますので、この数字よりももっと多い人が、失語症や高次脳機能障害と共に生活していることになります。さてこの未診断ですが、本誌でもかなり多くの方が該当しました。診断がないまま生活に戻った人の苦労は、想像を絶するものがありました。中には本人が明らかに「おかしい」と訴えているのに、「気のせいでしょう」と医師から言われたというような、医療過誤と言いたくなるようなものもありました。症状が軽度である場合は、画像や神経心理学検査だけではその評価が難しく、活動も行動範囲も極端に制限されている入院生活の中では問題そのものが生じにくいため、退院するまで本人も周囲の人も障害に気がつきにくいのです。軽度の場合だと、その困りごとの発見は、既存の評価システム下では難しいのです。

長期にわたる支援が難しい

この冊子の取材対象は、18歳から60歳までの就労世代です。就労に関わる人数については、65歳以下の高次脳機能障害では、中等度で毎年二、八八四人(蜂須賀2011)と推定されています。失語症や高次脳機能障害は、認知機能やコミュニケーションに問題が生じるため、元の職場に戻れる復職率は低く、1~3割程度しかありません。しかし、本誌の取材でも多くの人から聞かれたとおり、長期にわたる回復が見込まれる障害でもあり、特に若い時に発症した人の、その後の回復には目覚ましいものがありました。また、回復を阻害する要因として、就労できないこと、また就労したあとの問題によるうつ病の発症やそれによる退職などの二次障害が挙げられます。医療や福祉の長期支援は大切なのですが、様々な事情により、この数年は長期にわたる支援を受けることが難しくなったという現状があり、非常に残念です。

通う場所の重要性

失語症者に必要なのは、毎日通う場所があること(遠藤1996)良くなったから社会に戻るのではなく社会に戻ったから良くなる(橋本2009)とあるように、失語症や高次脳機能障害がある人にとって、社会参加が非常に重要であると言われています。中でも就労は、通える場所の存在、社会参加、さらに社会的役割やアイデンティティの確保、そして経済的自立といった、すべてを満たす重要な活動です。また、本人が通う場所があることで、家族の自由な時間も確保され、家族の就労も可能となります。
しかし、失語症や高次脳機能障害がある人の困りごとが最も顕在化しやすいのも、より高度なコミュニケーションや認知機能を求められる「就労の場」であるのも事実です。就労における困りごとは、その背景にある症状だけでなく、業務内容、勤務条件、人間関係を含めた就労環境によっても異る複雑なものなのです。

病院の課題

中途障害の場合、これまでに熟練した技能と業務、そして周囲の理解があれば、症状がある程度重度に残っても、就労できた事例も少なくありません。本誌でも病院では「復職は無理だ」と言われた人達が、長期にわたり少しずつ就労可能になった、またスキルアップして転職したなどの話も聞かれました。こうした長期にわたる回復の実態を知らない限り、入院している病院では予後予測が困難であることが分かります。
インタビューをする前は、ICIDHにあるように、個人因子と環境因子について考え、就労における困りごとは、背景にある症状を縦軸に、職務内容を横軸に取ったマトリックスを描くのかと考えていました。しかし、多くの失語症・高次脳機能障害のある方のからは、共通した困りごとが聞かれました。それは、
1)易怒性を主とした情緒の問題
2)コミュニケーションの問題
3)易疲労性
です。この三つとも医療の現場ではあまり重要視されてない問題点であったので驚きました。おそらく、これらを評価する検査がなく、点数化が難しいことが関係するのではないかと考えています。

本誌の目的

本誌『脳に何かがあったとき』で、失語症や高次脳機能障害のある人の就労に関するインタビューを始めた目的は、見えない障害と言われ、医療、福祉の世界に於いても認知が乏しいこれらの障害がある当事者が、復職や就労継続する際、実際に経験する困りごとと、それを乗り越えるための工夫や対処について、明らかにしていき、今ある支援の向上に役立てることです。昨今は、入院期間やリハビリ実施期間の短縮化、退院後の外来通院の減少などで、失語症や高次脳機能障害がある人達(特に入院生活で問題が明らかでなかった人達)が、退院して復職したのちに何に困っていくのか、実態を知る機会がほとんどありません。また、支援職の視点からではなく、当事者の生の情報から、就労における生きた知恵を集めたいと思っています。そこには支援職には分からない情報が埋もれているからです。彼らの困りごとと工夫を明らかにすることで、「就労は無理」と判断されている人の中でも、就労できる人がいる道筋が示され、また、せっかく就労したのに継続できずに退職したり、うつ病や引きこもりなどの二次障害を引き起こすことの防止にも寄与できるのではないかと考えています。

今月号は、長年、支援に関わってきた方々に、ご自分の支援の経験と取材した人々の声を照らし合わせ、専門家として俯瞰した意見を述べていただこうと企画しました。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

今月号ではコラムも書いています。アカデミー会員の方は、そちらの方をお読みください。...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

今月号はこの記事がありません。形式上このバナーが残っている状態です。ご了承ください。...

インタビュー記事

就労準備性を高める 大場龍男

この図は「就労準備ピラミッド」です。障害者職業センターが作っている「職業準備性のピラミッド」から少し変えています。復職したい時、どうしても「職業能力」のところに目が行きがちですが、働くためには、一番下の「健康・生活リズムの安定」ということが大事で、そこからきちんと上に積み上がっていないと、働くというのはなかなか難しいのです。まずそこができて、在宅生活が安定して送れるか、それから交通機関の利用がどのぐらいできるか、職場でのコミュニケーションがどのぐらいできるようになっているかです。その次は、独自のものですが、とても大切な「情緒的安定」がきます。これは、人生の途中での障害を前向きに受け止められているか、感情のコントロール、あるいは家族や友人などとの関係、その辺が適切にできるようになっているかということ。
働くというのは、すごくストレスがかかることです。そこに再び戻っていくことになるので、情緒的な安定ができていないと挫折してしまうこともあります。復職直前に、記憶障害を悲観して自殺されてしまった人がいるんです。その経験から「情緒的な安定」がどれだけ達成されているかというのが大切なポイントだと考えるようになりました。

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