頼るべき記憶が一切消えてしまった 機械メーカーの特例子会社勤務 Fさんの場合

 今となっては覚えてないんですけどね、結構、大変な職場で、ストレスも大きかったらしいですわ。歳は四十一、二歳ですかね。寒い日でしたわ。帰宅して寝てたら、胸がぎゅっと締め付けられるような感じがありましてね。これはあかんと思って、次の日は会社を休んで、病院に行ったんです。検査したら、心臓の動脈の一つが詰まってることが分かりまして、たしか狭心症って言われました。手術をしてステントを通しました。
入院中は、いろんな人が見舞いに来ますよね。さすがに親やカミさんの顔は分かるんですが、他の人が分からんのです。記憶が飛んでたわけですが、なんや、その時は、ぼーっとしていて自分の状況もよく分かってなかったんですわ。
 初めて、自分の記憶が飛んでるって分かったのが、退院した時ですね。家に帰る時も「これ、どこに行くんや?」って。全然、景色が分からんのです。帰ってみたらみたで、電気製品の使い方も分からんし、近所の人に挨拶されても分からんのです。その辺から、「自分、おかしい…」って感じて。で、もう一回、病院に行って、頭のCTとか撮ってもらったんですが、異常ないって言われて。でも、ほんと、世の中で起こっていることも、自分と人との関係性もさっぱり分からない。昔のことも、学生時代のアルバムを見ながら、親が説明してくれるんですが、思い出せないんですわ。唯一救いだったのは、身体を動かすことは覚えていて、自転車や車の運転はできたんです。
 それから、あちこち、10か所くらいですかね、病院に行きましてね。精神科とか、認知症外来だとか、そういうところです。会社の方は、仕事が何も分からんので、傷病手当金をもらいながら在籍してましたが、元に戻らんので、1年くらいで退職しました。退職した時は、これからどうなるんや……って途方にくれましたわ。「もう死にたい」と思ってました。親から「あんた、子どももいるんやから、しっかりしろ」って言われて、それでなんとかもったというか。
 1年半後くらいに、高次脳機能障害に詳しい病院につながったんです。原因は、手術時の低酸素脳症ではないかってことで、ようやく診断がつきました。でも手術する時は、一筆書かされるでしょ。心臓の手術をしたら、記憶が飛ぶことがよくある、大抵は数日で戻るって言われて終わりですよ。
診断が付いた病院から、リハビリセンターを紹介してもらって、3か月ほど入所しました。それから、障害者手帳の申請をして、B型の作業所に2か所、職業訓練センター、就労移行事業所に行きました。そのあと、ようやく、今の特例子会社に就職が決まったんですわ。ホッとしました。

専門家による寸評

言語聴覚士西村紀子

高次脳機能障害は、軽度なほど未診断率が高く、使える社会資源も少なく、お仕事に「戻れてしまう」ばかりに自助努力の中で日常・社会復帰せざるを得ない。だからこそ、それぞれの当事者がお仕事の中でどのような不自由を感じ、どう立ち回っているのかのケースを集めたい。これが本冊子の企画段階での趣旨でした。
が、Fさんのケースをヒアリングして感じたのは「重度でもこんなにも自助努力が必要なのか」というこ...

専門家による寸評

文筆業鈴木大介

高次脳機能障害は、軽度なほど未診断率が高く、使える社会資源も少なく、お仕事に「戻れてしまう」ばかりに自助努力の中で日常・社会復帰せざるを得ない。だからこそ、それぞれの当事者がお仕事の中でどのような不自由を感じ、どう立ち回っているのかのケースを集めたい。これが本冊子の企画段階での趣旨でした。

が、Fさんのケースをヒアリングして感じたのは「重度でもこんなにも自助努力が必要なの...


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インタビュー記事

奇跡を信じましょうという主治医の言葉

 高校二年生で交通事故に遭い、ICUに一カ月半。両頭蓋の開頭手術を左右順番に行うために急性期病院と回復期病院を二度行き来するという、非常に大きな脳外傷と重度な高次脳機能障害を抱えながら、復学と就職を実現させて今も働いているという松尾さん。非常にレアなケースかもしれませんが、特に同じような状況のお子さんを抱える親御さんにとっては、松尾さんが現在に至るプロセスは喉から手が出るほど知りたいものだと思います。
「寝たきりなのか、植物人間なのかも分からず、不安で仕方がなかった」というお母様に、主治医の脳外科医は、こう告げたと言います。
「脳幹だけが無事だったので奇跡を信じましょう。私の年齢だったら即死している怪我だけど、子ども(若い脳)だから奇跡の回復を信じましょう」

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